特集記事
Yukimura Sanada
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01
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と呼ばれた武将・真田幸村は史実上の本名を「真田信繁(さなだのぶしげ)」といい、父・昌幸とともに徳川軍を苦しめた武将です。一説には、徳川家康は「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物である」と評したといわれています。幸村に関するエピソードは死後大衆文化の中から生まれた話も多く、当時の人々からの人気もうかがえます。
徳川家康により沼田領を北条氏への引き渡しを求められ、これを真田昌幸が拒否したことを発端とする戦い。徳川軍約7000人に対し、真田軍は約1200人の軍勢。
地の利を活かした戦法で徳川軍を撃退し、徳川軍は1300人もの戦死者を出し、一方真田軍は40人ほどの犠牲ですんだといわれています。
関ヶ原の合戦の際、中山道を進む徳川秀忠率いる徳川軍との戦い。徳川軍3万8000人に対し、真田軍は3500人の兵力で戦ったといわれています。この時、父昌幸と幸村は豊臣軍、幸村の兄信幸は徳川軍に分かれていました。
徳川秀忠は真田に上田城開城を求めましたが、昌幸は返事を先延ばし、数日後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものでした。
真田はわざと支城での合戦に負け徳川軍を上田城まで進軍させ、突如門を開き待ち構えていた真田鉄砲隊が一斉射撃をあびせ徳川軍を翻弄。それと同時に奇襲軍(幸村軍)を秀忠本陣に向かわせ一斉射撃をあびせ、秀忠自身はかろうじて小諸まで逃げのびました。
逃げる徳川軍にあらかじめ準備していた堤防を決壊させて水攻めを行い、一日にして第二次上田合戦は真田軍の大勝となりました。
有名な「真田の赤備え(赤で統一された鎧)」で大阪に入城した幸村は豊臣軍の一員として大坂冬の陣を戦いました。大坂城三の丸南側、玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えました。
冬の陣のあと、徳川家康は十万石を与える代わりに寝返るよう幸村に伝えましたが、幸村はこれを拒否。その後、信濃一国を与えるとまで説得しましたがこれもまた拒否しました。
道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させ、その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。この言葉は後世にまで語り継がれています。
合戦終盤には真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行。家康本陣にまで攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして、その本陣を蹂躙し、家康を追いつめました。
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02
幸村の祖父。武田信玄に仕え、難攻不落といわれた砥石城を一夜で攻略するなど数々の功績をあげ、真田氏繁栄の礎を築く。
幸隆の長男。武田二十四将のひとりに数えられる。真田家の家督を継ぐも、長篠の戦いにて戦死。
幸隆の三男。幸村の父。幼少の頃から武田信玄に才智を認められ、信玄の小性から足軽大将に抜擢された。「甲陽軍鑑」によれば、信玄は昌幸を「我が眼」と呼ぶほど信頼を寄せていたという。
上田城で徳川の大軍を二度にわたり撃退する。
昌幸の長男。幸村の兄。関ヶ原の合戦では、父昌幸・弟幸村とたもとをわかち、東軍に属して戦った。合戦後、父・弟の助命に奔走。上田・沼田に領地を与えられ、その後松代に移封。93歳で没するまで現在の上田・松代の基礎を築いた。
真田氏は幸村の祖父・幸隆の代から武田家に仕え、信濃攻略で中心的な役割を果たしてきた。武田信玄からの信頼も厚く、幸隆は外様家臣でありながら、甲府に屋敷を構えることを許される譜代並の扱いを受けた。また信綱は武田二十四将のひとりにも数えられ、昌幸は「我が眼」とまで称された。
第一次上田合戦の原因となった、真田家と北条氏・徳川家との沼田の領地をめぐる争いの仲介をしたのが豊臣秀吉。以降真田家は豊臣配下となる。大阪冬の陣・夏の陣では幸村が秀頼を総大将とする豊臣軍の一員として参加し活躍を見せた。
第一次・第二次上田合戦で真田氏と戦い、煮え湯を飲まされる。しかしながら幸村の兄・信之は徳川家家臣・本田忠勝の娘小松姫と結婚し、関ヶ原の合戦では東軍についた。合戦後、本田忠勝と信之の奔走により、昌幸・幸村は一命をとりとめた。
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03
真田十勇士は真田幸村につかえる架空の家臣たちです。実在の人物がモデルとされているキャラクターもいます。
真田氏の家紋が六文銭に改められたのは、幸村の祖父・幸隆が武田方に臣従したときからといわれています。
六文銭は「六道銭」を表し、三途の川の渡し賃として棺に入れるもので、武士が戦いに挑んでは生きて帰れぬものという強い意志を表しています。
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